今までの宗教は物質世界が発展する中で、人々が霊的世界を忘れないために創られたものである。世界は広く今のように地球の端から端まで行き来することもできない時代は、各地に宗教の祖を降ろしてきたのである。インドに釈迦を、中近東にイエス・キリストを、中国には孔子を・・・と。世界中の人々が宗教に接することができるように法を降ろしてきたのである。それなのに人類は宗教を理由に戦争をし、互いに血を流す。戦争は繰り返され、戦いは果てしなく続く。人類の盲目は果てしない。生命のルールを破って、それが正しいと思っている。
地上界の物質文明を発展させるために、いにしえの人々が持っていた霊能力は閉ざされる事となった。その代わり、それぞれに守護霊をつけそのものを導くようにしたのである。地上界は魂の修行場であり、喩えれば舞台のようなものである。本来の世界、霊的世界を忘れさせないように、それぞれの地域に神のの言葉を告げる者を降ろしていったのである。しかし、その結果地上界はバラバラになった。神の言葉はそれぞれに歪められ、皆自分達こそが正しいと思い込んだ。人類が正義と言っているものは皆虚言に過ぎない。でなければなぜこんなにたくさんの正義が在るのか。人はそれぞれ違った正義を持ち、それが正しいと信じている。自らの”わがまま”を”正義”と思い込んでいるからだ。
そして、宗教指導者は神の計画の遂行者としての役割を担っていた。神の計画は人類が発展し、進歩していくために立てられた。人類が誕生して時の経過と共に成長していくために立てられた計画である。宗教が宗教として立てられた時期は人類が人類の自我を持ち、個性化していく時期であった。人類の成長を子供の成長に喩えるなら、丁度子供が産まれ、歩き出し、小学校に入り、中学校に入りと成長していくのと同じである。そして、その頃は自我が芽生え、自立心が出てくる頃にあたる。そして、人類は唯物論という思想を創った。人類が自我意識で作り出した思想である。この思想により、人類は自分達が生きて思考しているという事実すら更に見えなくしてしまった。そのような人類にとっては愛も何もないのであろう。自分達ですらただの物体だとする考えなのだから・・・。
自我が芽生えて個性化してくる頃は、識別の時代であり、反発の時代でもある。この時期は子育ても”第2反抗期”と呼ばれるように、親に対して反発する時期でもある。それと同じように人類も反抗期に入り、神を忘れ自分勝手な方向に進むようになった。人類は、現代の文明は高度に発展したと思っているが、集団になったときの精神年齢の低さが文明の程度の低さを物語っている。しかし、自分の意思を持ち、自分の個性を現していくことは成長している事である。
それぞれの宗教は、その創造者達が神の言葉を伝えた。だが、ほとんどの宗教は方便で語られている。それは本当の事を言っても理解できないからである。そのため、文字通りの事実だと弟子達は思い込んでしまう。後継者や弟子の代、そして時代が下るにつれて、どんどん心理より遠ざかっていく。さらには宗教団体を創ることによってこの世的なしがらみや欲得が絡み、どんどん真理から遠ざかってきた。
また、多くの人々は霊的世界を自分自身で確認できないため、宗教指導者のいいなりになるしかなかった。それだけに宗教指導者は人々に対しての責任があった。だが、現実は神の言葉を伝えるどころか、人の弱みに付け込み、ゆすり、たかりの類まで落ちぶれ果てるものさえいる。そのため人類は神を信じることができなくなった。神は存在する。だが、宗教以前の当たり前のことが、ついには人の心から忘れ去られてしまった。神の存在が当たり前の常識となる日が再び来るのだろうか? 現状を見るならそれはあまりにも遠い道程である。
どんなに多くの知識があろうとも、どんなに高い能力を持っていようとも、人類は所詮どんぐりの背比べ。特別ずば抜けて優れた人間など一人もいない。その証拠に、現状の宗教はほとんど悲惨な状況である。ほとんどが落ちぶれ果て、金儲けの対象となったり、人を救うどころか逆に地獄に叩き落すようなものさえある。これ程までに神から遠ざかっているのが現代の宗教である。
人類の自我の時代、それを補うために立てられたのが宗教であった。それは地上界という修行の場において、人類の本質である霊的世界を忘れないためであった。しかし、それは裏目となって宗教の堕落が始まった。神はそれでも人類に望みをかけている。儚い儚い一縷の望み。しかし成し遂げなければ成らない望み。人類が霊的世界を取り戻し神となること。人類は神の子なのだからそれができないはずはない。人類よ神のもとへ辿り着け!
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